「行ってきます。母さん。」
生徒手帳を開いて毎朝恒例の母さんへの挨拶をすませるとボクはそれを閉じて内ポケットにしまう。
「けーん!3秒で降りてこないとおいてくぞー!」
窓の向こうから声が聞こえる。一足はやく部屋を出た、同室の一輝たちの声だ。
3秒ってそりゃ無茶な、と子供特有の冗談に心の中で本気返ししつつ、ランドセルを背負い、ボクも部屋のド
アを開けた。
「おはよう。天田くん。」
「おはようございます。」
1階へ降り寮母さんに軽く頭を下げながらあいさつをして、玄関を出る。
天田はいつも遅いよなーと言う一輝たちにごめんごめん、と少し謝りながら最寄りの巌戸台駅へと向かった。
――また、いつもと変わらない1日が始まる。


「じゃあ、そろそろ問題の答え合わせするぞー!」
月光館学園初等部5年A組、窓側後ろから3番目が僕の席だ。
世間では小学生のお約束、というものらしいが机は2人掛けのもので隣には女の子が座っている。
(昼間に緑になったところって見たことないかも)
左肘をついてボーっとしながら体育の授業で盛り上がるグラウンドと空を眺めながら、横にチラっと見える高
等部のグラウンドはやっぱ広いんだなあ、とかそこの盛り上がりが初等部と大差ない様子を見て、高校生も意
外とってそんなもんなのかなあとか色々考えていたら、隣から鉛筆の先で小さくコンコンと叩く音がした。
その芯の先を見ると綺麗な字でノートの端に「つぎあたるよ」と書かれている。
極力、紙の音は立てないように急ぎながら教科書をめくる。どうやら最後に先生の声をちゃんと聞いてから3
ページ程授業が進んでいるようだった。
「じゃあ、4番の答えを天田。」
「12.4平方センチメートルです。」
「どうしてそうなったか前に来て書いて説明してくれ」
だったら最初から前に書けって言ってくれたらいいのに。先生もボクが算数の授業なんか聞いてないことに気
づいてたんだ。
「…最後に、問題文に従って小数点第2位を四捨五入して、答えは12.4平方センチメートルになります。」
「はい。天田ありがとう。」
「という感じでー、今天田が説明してくれたようにー…」
席に戻って美咲ちゃんに小声でありがとうと伝えると、どういたしましてと口パクで返してくれた。



昼休み。ボクはいつも食堂(本当はカフェテリアっていうらしいんだけど食堂の方が呼びやすいしみんな食堂
って呼んでる)で昼ご飯を食べる。
誰かを待ちながら食べるとサッカーに行く時間がなくなるから、いつも適当に食堂に来てる子達と一緒に食べ
る。そしてサッカーに行くかどうかを聞いて、一緒にグラウンドを駆け回ったり、昇降口の前で別れたりする。
『以上、高等部生徒会長桐条美鶴さんの談話でした。…続いては部活動です。先日、高等部ボクシング部キャ
プテンの3年C組真田明彦君が〜…』
今日はB組が4時間目に理科の実験のせいで授業が長引いているせいか、昼休みに入り5分たって混雑してき
た食堂の中でも知った顔が見当たらない。
こんな日もあるか、と1人で食べていると普段は友達との笑い声で全く耳に入らない月光館TVの放送内容が
しっかり頭に入ってきた。
高等部の真田先輩、学園新聞でもよく名前や写真を見る、無敗のボクシング部キャプテン。実をいうとボクに
は少しミーハーなところがあって、真田先輩に憧れてたりする。
去年も文化祭の招待試合をたくさんの人に押しつぶされながら見にいったりしたっけ(最後には高等部のお姉
さんに見やすい席を譲ってもらった)
何の迷いもなく怒涛のごとく相手にパンチを叩きこむ様を見て、ボクも先輩みたいに風に強くなりたいって思
ったんだ。あんな力があったら化け物にだって少しでも…
「あーまーだ!」
頭の上をボールで軽く叩かれた。振り向くと、にんまりしながらサッカーボールを持った翔が立ってた。
「昼休み30分切ったぜ?早くしないと6年生に取られちゃうって!」
「食堂の中にボール持ち込むとまた怒られるよ?」
あきれながら手早く食器を片づけると、ボールが見つからない内に急いで食堂を出てグラウンドに向かった。



「巌戸台ー、巌戸台ー。」
ホームと列車の間に気をつけながらモノレールから降りて、改札口にICカードを通す。
ここまでくれば寮まではもうすぐだ。たこ焼きのおいしそうな匂いが商店街から漂ってきた。
「でさー、昨日の怪談!すごかったよねー。」
ここからは寮に向かう人と自宅に向かう人に分かれるので話が途中になったときは少しだけロータリーで立ち
話をしてしまうことがある。
今日も例外ではなく、人気バラエティ番組の話題で盛り上がっていた。昨日は夏を先取りと称して怖い怪談を
語るので有名なタレントが番組に出ていたらしい。
ボクはその番組を見ていなかったからわからないけど、みんなの話を聞くに結構怖い正統派だったみたいだ。
その時、商店街の方からやたら遅い自転車が走ってきて、集団になっているボク達に危険だとベルを2回鳴ら
した。すみませんとのろのろ通り過ぎてく自転車に謝ってエスカレーター横のベンチに場所を移して話を続け
た。
適当に「へぇ〜、見たかったな〜」と相槌を打ちながら交わしていると、海斗がボクに向かって言った。
「でもさ、3年の時に乾が話したやつが1番怖いよな!緑の夜にかんおけがいっぱいってやつ!本当の話なん
だろ?」
「…確か、TVで言ってたんだよ。」
あの奇妙な夜は本当だ。今でも緑色の夜に目を覚ますことがたまにある。あれは怪談なんかじゃない。でもそ
れを知っているのはボクだけみたいで、大人も友達も、みんなよくできた作り話だといって笑った。それ以来
ボクはその話をしなくなった。
「そうだっけ?」
「…ボク、ちょっと用思い出しちゃった。寄り道してくから。また明日。」
緑の夜のことはよくわからないけど、わかることが1つだけある。その話をされるのはすごく不愉快な気分に
なるということ。
ワック独特の油の匂いと買い物途中の主婦達がペチャクチャと喋る声の中をできる限りのスピードで走ってい
ると、小さな段差でつまづいて転んでしまった。ランドセルというものは意外と重心が不安定な上に重さがあ
る。それでいて前も見ないで走っていれば転ぶのも当然だ。
大丈夫かな?と声をかけてきた白髪に黒ぶち眼鏡のお爺さんに、大丈夫ですと素早く言い放ち手で膝を払うと
またすぐに寮とは反対方向に向かった。


「痛った…」
長鳴神社のベンチに腰かけ、商店街で転んだ傷をさする。傷こそ深くないものの血が出てきてしまっていた。
カバンに入っていた絆創膏を貼ってはみたものの、既に真っ赤ににじんでしまっている。
すぐにでも寮に戻って消毒したいと思ったけれど今から戻ったところでゆっくり喋りながら、または何かラン
ドセル持ちなどのゲームに興じながら寮へと帰る友達と鉢合わせしてしまうだろう。用があると言って分かれ
た手前、すぐに帰ることもできない。
「全力疾走なんて、するんじゃなかった」
「ワンッ」
自分自身に向かって言い聞かせたはずの一言から返事が返ってくる。
ベンチの前に1匹の白い犬が座っていた。
「キューン…」
シロ(仮)は膝の傷のあたりに顔を近づけて、その白い毛に映える深紅の目でボクの顔をジっと見つめてきた。
「心配してくれてるの?ありがとな。」
そう言ってボクは優しく頭をひと撫でした。
「ワンッ」
シロは神社の入り口の方に向かってひとつ吠えた。
誰かがやってくるようだ。確かに派手な自転車のブレーキ音ののち、階段を上がってくる音がする。
そのスピードはだんだんとペースを落としてゆき、その人が最後の1段を上り終えたところでシロがまた1つ
吠える。
「やぁ、探したよ。」
「……ボクのことですか?」
パーマがかかった長髪のうさんくさそうなおじさんやってきた。
あたりをキョロキョロと見まわしてみても、おじさんを除いて神社の中にいる人間はボクだけだ。
「って君、怪我してるじゃないか、すぐに手当てしに行こう」
「知らない人にはついていってはいけないと学校で言われたので」
ボクの膝を見るやいなや手当てをしなけばと言う見ず知らずのおじさんに向かって、ランドセルの外側につい
ている防犯ブザーのボタンに手をかけて、学校で教わった通り、一字一句違わずに発言する。
「申し遅れたね。僕は、月光館学園の理事長をしている幾月というんだ」
「あなたが、理事長・・・ですか?」
「君、君の名前は?」
おじさんはポケットから写真つきの月光館学園のIDカードを出してボクに見せた。
「…すみませんでした。5年生の天田、乾です」
「謝ることはないよ。歩けるかい?ここからだと初等部寮が1番近いね。一緒に行こうか。」


09.12.14